気ままな日常

適当なことを適当に書くそんなブログ

今更ながら「復讐したい」を観たオタクの妄言

お久しぶりです

なんでこんなのを今更ながら書いているかというと、ことの始まりは昨日の夜中

とある話をきっかけに「復讐したい」の魅力に取り憑かれている女に「いいから観ろ」と圧をかけられ、怯えながら急遽鑑賞会が始まったことから始まる

作品のことは知っていたが、実際にまだ観たことは無かったためワクワクしながら観たわけだが...

結果はまあ、いい意味でも悪い意味でも期待を裏切られた作品だった

急に高橋がやる気を出したり、怒涛のメンバー登場ラッシュがあったりとなかなか盛りだくさんな内容でお届けされていて監督の頑張りが伝わってきた

ちなみに推しの顔面は100万点であったという、どうでもいい情報をここにぶち込んでみる

 

そんな中、最後に高橋と星野が対峙する場面があるのだがそれを観ていてふと、思ったことがある

もしかして高橋と星野は似た者同士であり、実は最高の理解者になりうるのではないか、と

そんな感情を友人にぶつけた所、考察することを勧められたので、今日はこんな考えを元に

どうして高橋は星野を殺すに至ってしまったのかを、書いていきたいと思う

まあ話の結論としてはなかなかズレているし、「そんなの憎しみが理性に勝ったからじゃん」とか言われたらそれまでなのだがそこは気にしない方向で

最初に言っておきますが、あくまでもこれは私の個人的なひねくれた見解に基づくものなので

「えっそれは違うだろ」とか「この言葉の使い方間違ってる」とかそういった類のコメントは受け付けないのであくまでも1オタクの妄言だと思ってさらっと読んでください 

あとこれは、私にこの作品を勧めてきた友人に投げつけたメモをほぼそのまま載せてるので、文章として繋がってない所はあるとは思うがそこはご勘弁を

 

↓以下ネタバレ含みますので、「まだ観てないからやだ!」とか「こんな長々とした前書き見た後でそんなの観てられるか!」って方は、カエルのブログでも観て「なんだこいつ」とでも思ってて下さい

 

登場人物の名前が分からないって人は、このリンクから飛んで調べるか、映画を観てください

GYAO!で火曜日ぐらいまでは無料放送してますので

復讐したい - Wikipedia

 

星野について
まず彼女は顔にコンプレックスがあった
それを改善するために整形に踏み切った
しかしながら、その目の前に元々彼女が欲しかった顔を元々持ってる女(泉)が目の前に現れた
→そこでまず劣等感が生まれる
もちろん彼女は動揺する
心が乱される
その動揺はやがて憎しみに変わる
←ここまでが話の流れ

 

彼女にとって整形で作られた理想の顔はその彼女の全てであり、それは命と何ら変わらないものである
整形によって彼女のアイデンティティは確立されたようなものなのに、その存在を否定されるようなことがあるならば、それは存在゙全でを否定されたという感情に繋がるのではないか
それは言わば自分を殺されたも同然である
「この顔である私が私である」という理論付けが彼女の中にされているのであれば、同じ顔をしている泉の存在は無意識に彼女を傷つける刃となる

だから彼女を殺すことによって、自分という存在を肯定する且つ私は私であるというアイデンティティを確立させようと思ったのではないか

じゃあもし彼女が妻と二卵性の双子で、片割れに憧れて整形したとしたならば同じことが起きたかと言われるとそれを証明するのは難しい
しかしもしその状況下であった場合、本能の植え付けとして生まれつき彼女の中に元の顔である私が存在し、それを自覚した上で整形に踏み切るのではないかと思う
顔だけにアイデンティティの全てを持ってきている訳ではないのだから

これは想像だが、彼女の周りに彼女の顔を認める者があまりいなかったのではないだろうか
アイデンティティの形成は幼少期の環境が左右するという話ある
憧れというのは、個々が別々の人間であるということを時に曖昧化し、やがてそれは同化に繋がる

偶然が産んだ悲劇ではあるが、これも一種のアイデンティティの失敗によるものとも言えるのではないだろうか

「私が泉さんの代わりになってあげる」
「何もかも同じにしてあげる」
この発言は命乞いのためだと思うが、ひねくれた見方をすれば憧れの顔を持った"泉"という存在を認めることは、彼女のアイデンティティの確立に大きな1歩をもたらす
だから咄嗟にあの発言が出たのではないだろうか
本能では彼女は泉に゙同化゙したいのでは

 

これがまず星野に着目した考えになる

たまにはまともに書いてみようと思ってダラダラ書いてみたけど、どつちにしろやっぱり読みづらいわ

自分の文章構成力に限界をおぼえているが、次のブログに続きたいと思う